松本益平さん。大正10年生まれ(故人)、タカラ湯二代目のご主人である。松本さんは、昭和2年に東京の下町足立区の北千住、荒川土手の近くでタカラ湯の経営を始めたという。現在のタカラ湯は昭和13年に建てられたもので、宮造り千鳥破風の堂々たる構えとなっている。
全員がはっぴ姿、七福神の彫刻はすでに取付けられている
「日記ねえ、人に見せるほどのもんじゃあないですけど‥」
松本さんの記憶によると、昭和5年までは浴槽はすべて木で出来ており、釜だけが鉄だったという。したがって掃除も大変で、番傘をたばねたささらで床をこすり、ぬめりを毎日取らねばならなかったそうだ。洗剤はないので毎晩近くの荒川まで砂を拾いに行ったりもした。
昭和25年頃のタカラ湯、ペンキ絵は別府湾
昭和19年頃から戦局が悪化し、銭湯の営業中にも空襲はあったようだが、「少々の空襲には客も慣れ、平気で湯につかっている人もいました」という。
終戦直後の闇市隆盛のころ、何しろ当時の客入りといったら、それはすごかったようだ。日記の記載を見ても、毎日千五百人から二千人、大晦日などは三千人ほども客が入っており、場内が歩けないくらいだったそうだ、また、しお湯を呼ぶニガリを入れた浴槽があったが、塩分が強く、客の体が浮いてしまうので、つかまるための棒が付けられていたほどで、少々のキズはすぐなおってしまったという。
相撲のことから七五三、B29飛来などこと細かに記録されている
その後、昭和24年に結婚と同時にタカラ湯の経営を兄にまかせて、文具店を開いた。店はたいへん繁盛し、そこで貯えたお金をもとにして、同28年、板橋区の常盤台に新たに銭湯を開業し、そこを兄に譲り、自分はまたタカラ湯に戻ってきた。
現在のタカラ湯は外見はほとんど当時のまま、洗い場こそ近年に改装されたものの、今でも薬湯はしっかりと残っている。